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ヒトゲノムとがん研究

横浜で日本がん学会

毎年秋に行われる日本癌学会。日本中のがん研究者が一堂に会し、最新の研究成果を報告する場だ。今年は十月上旬に横浜市で開かれたが、学会の中心議題は、やはり「ヒトゲノム」だった。昨年あたりから「ゲノム」と「がん」との関連は注目されていたが、今年は六月に、ヒトゲノム解読が国際協力によってほぼ終了したこともあり、学会でも関心は大きかった。

念のため、ヒトゲノムについておさらいしておこう。人間の体は六十兆個の細胞で形作られており、ひとつひとつの細胞にある核の中に、ゲノムの本体であるDNA(デオキシリボ核酸)がしまい込まれている。DNAを構成する化学物質は、アルファベット四文字で表現され、その数は三十億。その並び方で「遺伝子」になるため、遺伝暗号などと呼ばれる。  遺伝子一個はおおざっぱに言って数百数千文字でできている。三十億の文字列の中に遺伝子は五万―十万個隠れているとされ、現在は文字の並び方がわかった段階。その意味(遺伝子の働き)を調べるのはこれからだ。  それでも、八十年代以降に本格化したがんの遺伝子研究は、がんを引き起こす「がん遺伝子」や、がん化にブレーキをかける「がん抑制遺伝子」などを発見してきた。そうした黎明期を経て、ゲノム解読がほぼ終了した今では、発がんに関係する遺伝子だけから、病態を解明する遺伝子も徐々に判明してきた。

ところで、われわれが「がん」という病気に直面して疑問に感じることがある。同じ胃がんの診断でも、Aさんは助かり、Bさんは不幸にして亡くなってしまうこの差だ。「手遅れ」という言葉があるように、発見の早い遅いは、素人なりに考えつく。ただ、同じ進行度なのに片や転移して命を落とし、片や完治して明暗を分けることがある。これはなぜなのか。悪性度という言葉が使われるが、今までは判然としなかった。  がんの「進み具合」や「転移するかどうか」、「抗がん剤や放射線が効くがんなのかどうか」など、個性とでも言うべき、こうしたがんの違いは、研究の結果、ゲノムの差によることがわかってきた。

患者ごとに抗がん剤の効果も異なる

東大医科学研究所の中村祐輔教授らのチームは、食道がん手術後にシスプラチン、5FUという二種類の抗がん剤を同じように使った患者二十六人を調べ、十二か月以内に死亡した患者と、三十か月以上生存した患者のそれぞれで、働き方の違う遺伝子約五十個があることを突き止めた。 一万個近い遺伝子を一度に調べられる新しい手法を使った成果で、癌学会での発表には大きな反響があった。同チームでは、これらは抗がん剤への感受性や耐性などがんの性質に関係する遺伝子とみており、さらに詳しく調べていけば、患者ごとに薬の効きやすいがんかどうか判別が可能になるとみる。

また、自治医科大学の間野博行助教授らのチームは、百六十人の白血病患者の協力を得て、がん細胞のバンクを作った。バンクの狙いは、区別して診断をつけるのが難しかった急性骨髄性白血病と骨髄異形成症候群を遺伝子で診断する方法の開発だ。急性骨髄性白血病では抗がん剤を短期間に大量に使う治療が効果があり、骨髄異形成症候群では、抗がん剤を抑え目に使う方法が妥当とされている。両者を鑑別診断することは適切な治療という点で重要だった。同チームは、両方の病気で特徴的に働く遺伝子を、バンクにあるがん細胞を調べて見つけ出した。この遺伝子の差で正確な診断に道が開ける可能性がある。

こうした特徴は、ほかの多くの臓器がんでも確認されている。ゲノム解析から得られる新しい情報は、これまでのがん研究を大きく変えるかもしれない研究者は今、一種の興奮に包まれていると言っても過言ではない。

がん予防もゲノム解析から

これからのがん研究は「個性」がキーワードであることはわかった。ここで個性と言う場合、がんの個性だけでなく「がん患者の個性」でもあるが、具体的には何なのか。  これまでのがん治療は、極端に言えば、二割の患者にしか効かない抗がん剤を、十分な科学的根拠もないまま投与し、副作用で苦しめてきた。  ある種の抗がん剤の代謝能力は人によって五十倍もの差があるという。代謝の弱い患者からはいつまでも抗がん剤が消えず、がん細胞をたたくのと合わせて、正常部分も痛めつける。  

こうした個人差はSNP(一塩基多型)と呼ばれるゲノムの中の遺伝暗号のたった一文字の違いが関係しているとされる。この差を見つけることで、代謝能力の弱い人には薬を選んで処方できる。  一方、Aという薬は体に毒だが、Bという薬は効くという個性もある。SNPはこれも判別できる。こうした研究を進めていけば、ひとりひとりに適合した「オーダーメード医療」が登場し、がん治療は大きく変貌する。  国内のSNP解析の拠点である東大医科研チームは、三十億文字のゲノムに約三百万一千万あるとされるSNPのうち約三万五千個を九月末までに確認した。海外ではすでに「百万単位でSNPを発見」と公表したバイオベンチャー企業などもあり、猛烈な速度で解析はさらに進む。

分子疫学

診断や治療だけでなく、ゲノム解析の成果を「がん予防」にも生かそうという試みもある。地域や職場など、ある集団を調べて病気の原因やなりやすさを調べる「疫学」という手法があるが、これと、ゲノム解析を組み合わせた「分子疫学」という手法が注目を集めている。

がんになりやすい人とそうでない人ではゲノムのどの部分にSNPがあるのか、その違いを調べる。そのうえで、食事や運動、喫煙、飲酒など生活習慣を疫学調査する。そうすると、例えば「あるSNPを持つ人は、野菜の少ない食生活だと、十倍がんになりやすい」などと具体的に警告でき、今まで以上に科学的根拠を持った予防策が打ち出せる。すでに大腸がんでは京都府立医大と大阪府立成人病センターなどが共同で分子疫学の研究に乗り出している。

このように「二十一世紀のがん研究はゲノム情報を中心に進む」(黒木登志夫・日本癌学会長)のは間違いない。だが、ゲノム研究が一般の人にはまだまだ理解しがたく、空恐ろしいものという印象を与えているのもまた事実だ。  広橋説雄国立がんセンター研究所長は「研究者が着実に成果を上げ、それを世に問いながら進めていくことが重要」と指摘する。ゲノムという究極の情報を扱う研究の発展には、社会との対話もまた不可欠なのだ。

(健康かながわ2000年11月号)
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