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村上陽一郎氏 生命科学から問う Part2

臨床例の分析・研究 日本のインフォームド・コンセント

--医療の現場で「インフォームド・コンセント」という言葉を聞いたことのある人が増 えてきたと思うのですが、日本ではどのような捉え方をされているのでしょうか

村上
IC=インフォームド・コンセントは日本では、がん治療の場でよく使われるよ うです。これは*EBMと同様、米国から導入された概念です。日本の医療の現場に根付くまではもう少し時間がかかるのでないでしょうか。日本の場合、インフォームド・コ ンセントの捉え方が形式的だったり、十分な説明なしに行われたりする例が目につくか らです。

例えば手術承諾書にサインをすることがインフォームド・コンセントだと思っている 医療従事者、患者や家族は多いと思いますが、承諾書への署名に至る過程でどこまで説明したか・説明されたかが重要で、それこそがインフォームド・コンセントなんです。

これも私の体験したことなんですが、親類がある手術を受けました。一時間ほどすると助手らしき人物が手術室から出てきまして、私に帽子、白衣、手袋を付けて中に入っ てきてほしいと言います。切開した患部を見せていきなり「こういう状態なんです」と 説明を始めます。患部近くに動脈があり、患部を剥離するとなると血管を傷つけるリス クが高い。出血を覚悟で手術を進めるか、リスクを回避するか、その場で決めてくれな いか、というニュアンスだったんですね。事後の言い訳も考えての説明、手術の現場で決断を迫るというやり方でした。もし、これを、彼らがインフォームド・コンセントと 考えていたとしたら、まったく違います。

EBMは、クリティカル・パスの考え方に沿って臨床上の標準の道筋を患者や家族に 伝えることでもあります。つまり、ある病気で診療を受けている人に対して、あなたに はこういう症状があり、その症状にはここまでの治療法がありますといった説明ができ ます。その過程で医療の質の標準化ができ、万一、医療ミスが起きても医師など医療側 が全面的に責任をとらずに済むことにもなるわけです。

米国のインフォームド・コンセント

村上
米国では、同じCでもチョイス(選択)のCという捉え方が浸透しつつあります。 患者の自己決定を重視しようとする「インフォームド・チョイス」の方向です。病気に 立ち向かうとき、医師などの説明に対して自分で考え、判断するという自己責任の問題 になってきています。QOL(生活の質)のL、つまり生活、生命、人生あるいは生涯の すべてはその人独自のものであり、自分で引き受けるべき覚悟はできているかという選 択を迫られるわけです。となると、この概念は、日本人のメンタリティを考えるとすぐ には受け入れられないし、インフォームド・チョイスの社会にはなりずらいのが現実でしょうね。

自己決定の重要性と配慮

--お話をうかがって納得できます。ご指摘のようにQOLという言葉も、本来の意味を 理解している人は、まだ少ない気がします

村上
日本におけるQOLへの理解、あるいQOLをどう捉えるかというのは、とても デリケートな側面を持っていると思うんです。インフォームド・コンセントからインフォームド・チョイスへと向かっている米国の 流れを、日本人もそのまま受け入れられれば、何も問題はないんでしょうけれども。  かれこれ十年ほど前に、京都大学にいた頃の*加藤尚武教授が「愚者の権利」という ものを提唱しています。前立腺がんの患者がいるとして話してみましょう。

医師たちは本来の意味のICにそって、あなたの病気はこういう状態です。あるいは EBMに基づいて、がん摘出手術をおこなえば余命は何年になる。手術以外の方法とし て、例えばホルモン療法を採れば乳房や男性的外貌に変化は表れるが男性機能は維持可 能。しかし、余命率は摘出手術に比べると低くなる、と説明をします。余命率の高さを とるか、性的機能の維持を選ぶか、二つにひとつになります。

合理的に考えれば、余命率の高い方法を選択するだろうと医師は予想し、手術をすす めるでしょう。でも、この患者が男性として残りのいのちを生きたいと選んだとします 。それは一般的にみれば愚者の判断ではあるが、自らの人生の目的によって選択された こ とは尊重すべきであるというのが加藤教授の主張なんです。インフォームド・コンセン ト、あるいはインフォームド・チョイスの持つ本来的な意味からすれば、どの選択も患者主体であり、QOLを自ら選んだことになります。  患者の自己決定は大事なことですか、判断能力の有無が問題になります。高齢者、精神に障害のある人、子どもなどは自分で自分のQOLを選べるでしょうか。また、自分 のQOLを想い描くことができるでしょうか。日本ではどうも言葉だけがひとり歩きを して、IC、EBM、QOLの考え方がすべての人に理解されていない、伝わっていな い現実がおざなりにされている、と私は思います。

これからの健康とは 社会の果たす役割の大きさ

--健康と一口に言いますが、私たちは断片的な健康観しか持てていない気がします

村上
WHO(世界保健機関)が検討を続けている「健康の定義」によれば、・フィジカル(肉体的)にウェルビーイング(良く在る、または、いい状態)であること ・メンタル(精神的)にウェルビーイングであること ・ソシアル(社会的)にウェルビーイングであることとされています。

これに加えて ・スピリチュアルにウェルビーイングであることも大事であると言われています。
ところがこの「スピリチュアルに」という位置づけが、日本語に訳そうとするとしっ くりくるものがないんですね。「宗教的に」と訳すと日本では誤解をされる場合もあり ますから。

知的存在感のある日本、経済的に強い日本を築く、そして安全・安心できる社会を構 築する。これが政府の施策ですが、ここで言う安心の捉え方がメンタル、あるいはスピ リチュアルとかかわってくる気がします。安心立命という言葉があるように、こころが 安らかに開放されている、つまり「自我から解き放たれている状態」も、人として健康 的である、ということです。WHOの提唱する3つの項目すべてが完備されていなくて も、一人ひとりのいい状態を保つ、あるいはいい状態を妨げる要素をなくしていく役割 を、これからの社会は担うべきです。

ところが現代社会は、多くの人々にとって「どこか安心できない」のが実状ではない でしょうか。

不安の時代にならないために

image--安心できない社会で、人々はさまざまなストレスを感じているわけですか

村上
そうだと思いますね。最初にふれた文明の進化段階の説でいくと、いまは四段階 目になるでしょう。文明の進んだ社会では、人々が社会、文明からさまざまなストレス を得るようになり、ストレスへの対抗力が弱まっているのではないでしょうか。私はそ うした理由から、21世紀は「不安の時代」ではないかと位置づけています。
働き盛りの男性の自殺があとを断ちません。年間に数万人もの人たちが自らいのちを 断っている現実があります。将来、日本人の主要死因の上位に自殺が顔を出すかもしれ ません。リストラなどで収入の途が閉ざされ、その不安に耐えられなくて自ら死を選ぶ のでしょう。しかし、戦後の昭和二十年代はじめは、明日、何を食べるかでみな必死で した。それでも自殺する人はいなかった。

いまは、戦後の食糧事情に比べれば、はるかにゆるやかな時代です。収入がなくなっ ても、いざとなったら生活保護だってある、ボランタリーな人・組織に一時的に助けて もらうことだってできるんです。発想の転換さえあれば、家族ともども路頭に迷うこと も、自分のいのちを失うこともないんです。

それでも、死を選ばせるほど人々のこころを蝕む現代社会とは何なんでしょうか。 「漠然とした将来への不安」という引き金が、自殺に至る過程であるとすれば、それこ そが現代社会の抱える不安要素だと思います。
ところが現代社会は、多くの人々にとって「どこか安心できない」のが実状ではないでしょうか。

--「予防」の概念、考え方も変わってきているようですが

村上
そうですね。単にはしかにかからないとか、病気にならないという話ではなく、 社会的な観点で「予防」を論議すべき段階にきているようです。
PP、つまり「*プリコーショナリー・プリンシプル」という考え方が、これから大き な テーマになってくるでしょうね。これは「予防原則」と呼ばれて、遺伝子組み替え作物 の是非などにからんで環境問題の分野でよく論議され、取り上げられている考え方です 。将来、環境に対して取り返しのつかない影響を与えるものは、未然に防ぎ、対策を講 じ るべきという考え方です。

医療の面に置き換えれば、長い目でみたとき、違った方向へ行こうとするものに対し て早めに別のみちすじを立て、医療ミスなどのリスクを回避しようという考え方になる でしょう。
これからの健康を考えるとき、肉体的・精神的にいい状態が保たれ、病気にかからな いための予防面のみならず、社会的にこころ安らぐ状態が保たれることがますます重要 になってきます。

(健康かながわ2004年1月号)
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